料理の香り

2010/12/03
料理は味だけではなく香りも食感も視覚的な美しさも、人間は実に敏感に感覚を受け止める。美味しいまずいはどうしても許せない感覚、ごまかせない感覚である。

なかでも現代人になって衰えがちな嗅覚、香りは味などより意識の深部に働きかけてボディーブローのように身体を痺れさせる。
先日、京都の嵯峨野の不老庵が出来て、その披露に招かれた。いつかも紹介した早川さんの天才的感性を楽しませていただけたのだが、この嵯峨野不老庵も抜群である。
彼は建築家じゃない、数奇屋大工でもないし庭師でもない。料理人でもないし陶芸家でもない。茶人でさえない。市井の好き人なのだがその感覚は抜群である。
なぜか日本の美意識を知り尽くしている。僕は理論で語るのだけれどそのままに空間や道具だてや料理などが出来ている。

その茶会は彼独自の形式の茶会である。酒とシャンパンとワインを頂きながら食事を頂くだけである。お抹茶もでない。

藤原定家の離宮だったと思われる・・・というこの嵯峨野の家を積極的に手を加えて再生している。ほとんど廃屋に近かったのだそうだが、その佇まいは自然である。そこに長年あったかのように紅葉も石も低木も心地よくそこに居る。

その母屋の奥の琳派の屏風の金箔がしっとりとした暗がりに食卓を置いてそこで料理を頂いた。料理は亭主の早川さんのディレクションによる美山荘の料理である。

暗がりでの料理は香りを引き立たせる。視覚ばかりが突出してしまった現代人にはこの暗がりが香りを際立たせる。

早川好みの小振りの器に心を込めた料理が次々に運ばれてくるのだが、その香りの華麗なハーモニーは古の、王朝時代の名残をのこす空間にはぴったりである。

仙台の岩井という寿司屋で「生のネタ」とは「絶妙に加工したネタ」だったことを知ったのだが新鮮な生魚と称する寿司ネタが実は充分に時間を計算して手を加えてこそ生まれる事を知って感動したものである。そういえば数奇屋大工の用いる木材は20年、30年、優れた環境に寝かしたものだった。自然とはそのままの自然ではなく、日本の美意識では「自然を感じさせるように絶妙に加工したもの」だったのである。

静寂は無音ではないし、空とは空っぽではない。日本人の感覚に重要な役割を果たす「間」の感覚もこの自然の中の人為や空のなかの豊穣さの感覚と同じなのだろう。

そう言えば、昨夜の揚げ豆腐は抜群だった。かりっとした表面と中身の豆腐のふわっとした食感の組み合わせと絶妙な香りと味がなんでもない揚げ揚げ豆腐の姿をしてそこにあるだけなのだ。

人間の全身の感覚で空間と空気の感触と気配を感じ、絶妙な料理を味わい、人の気配と知と感性に漂うように絡み合う・・・いい時間だった。
(2010、12、3)