「飢えた獅子のように生きる」

2010/08/23
人の死に直面して、誰でも自分の生命について考え始める。死というものの不思議さと、もうその人に会えなくなるという悲しさと、そこから想いを馳せる生命というものの華麗さと・・・友の死に直面して広がる想いの華麗さと無限に広がる思索の波紋はいったい何だろうと思う。

死はだれも知らない。死の記憶は誰も持ってはいない。誕生の記憶はだれのDNAの中にあるのだけれど死の記憶だけはそこにもない。

旅をしながら世界の隅々の1人ひとりの人生の喜怒哀楽を感じて歩くのは嬉しい。ホーチミン市の道をまるで蟻の大群のようにひしめいて走るバイクの1人ひとりの想い。ハワイの夕陽を眺める男と女の想いは何なのだろう?上海の無邪気に遊ぶ少年達の表情の後にきっと歓びも辛さも秘めている。

僕の息子は大学を終えてスイスのメンドリジオという建築大学に行く。きっと不安と大きな夢が彼の心に渦巻いているだろう。僕のK塾でよく逢った若者はつい最近、ロンドンのザハ・ハディッドのオフィスに就職して今は夢中で仕事に取り組んでいる。優れた建築家だった友人が1ヶ月前に死んでいたことを彼の設計した山の上のゲストハウスのオープングパーティーで知ったのも感無量だった。

僕は死など畏れていない。目の前に広がるどきどきする凄い、感動的な出来事の渦の中を夢中で歩いている。今、夢中なことは北京に建築する別荘の設計である。壮大な中国の歴史をその建築の中に詰め込もうというのだ。そもそも、中国は多様な文化の坩堝である。民族の多さも、料理の思想も、歴史の大きさも、全てが多様であり、豊饒である。その全てを呑み込む建築を見つけ出したいと思っている。同時にまた、この建築を通じて東洋の美意識を明文化したいとも思っている。中国の文化は東洋の文化のミニチュアのように思う。

僕はまるで逃げるネズミを追いかける猫のように、夢中で美を求めて走り回っている。決して人類の歴史に貢献しようなどと高邁な姿勢ではない。腹を空かした獅子のように獲物を狙って飛びかかっている。

生命とはそんなものなのだ。好奇心と衝動に突き動かされながら自分の生を最大限に拡大していこうと思う。若い人たちに解放しているK塾はそんな活動である。美とは何かを三百数十頁の論文としてまとめたのもその美を狙い、追いかける僕の動物的衝動、生命の爆発のかけらである。来月にはソウルで中国と韓国と日本の文化とデザインの相異と共通点について議論をすることになっている。今、東洋の美意識を明白なものにするべき時だと思う。西洋がつくりあげた近代思想が窒息しようとしているとき、これを救うのは東洋の美意識だと確信している。自分の命の力で世界を突き動かして行きたい。
飢えた獅子のように・・・。

この文章はつい最近、中国の四季大金という企業雑誌に書いた文章である。こうした原稿を毎日のように書いているとなかなかブログが書けない。会う人にどうなったの?と聴かれて、そうだ中国語にしかならないこの原稿を曼荼羅紀行に載せようと思った。そんな異常なほどに忙しい毎日である。
(2010、8、23)


写真はマンハッタンとマウイ島