真善美

2010/04/01
古くさいイメージだね。この三つの漢字。

大辞泉によれば、「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう」とある。英語では「truth, goodness, and beauty」となるそうだ。
「知性(認識能力)、意志(実践能力)、感性(審美能力)のそれぞれに応ずる超越的対象が真善美である」とヤフー百科事典には記している。どうやらドイツから来た思想らしい。だとすると真善美と訳した日本人のこの三つの漢字のイメージは責任が重い。
真善美は1つずつ眺めると結局、日本人の美意識につながっている。真の漢字には科学的真実のイメージよりこころの「まこと」に重心があるように見える。これは美の1つの形である。善は倫理や意志を持ち出さなくとも人に歓びを与えること「よいこと」を指している。これも自分と他者との心地より関係のことであり、美の1つの形である。
真善美の美はそのまま、「うつくしいこと」を意味していて、美とは「命のようなもの」だと僕は思っている。

真善美はすべて美のことである。
なにか絶対的なもの、超越的対象を思い起こされるのはどこかで西洋的思考方法の芯になっている「キリスト教的価値観」に支配されてきた近代思想のせいなのではないかと思われる。
真善美を神の視座で無意識のうちに感じてしまうのだろう。日本人には神がいないとするとこの神を「自然」と置き換えてもいい。

こう考えてもいい。真は「自然の調和」であり、善は「人の調和」であり、美は「命の調和」であると。
調和とは生命がそうであるように死も含んでの調和である。自然との融和感覚でいうと生死のすべてを包含した、あるがままの調和である。

ここには一神教の神はいない。
「神は自分に似せて人間をつくった」という。人間も自然もすべてをつくった神の思想とは1つにならない。それでは人間は無責任になる。
「自然の一部としての自分」が真善美の中にある。誰がつくったのではない、自己責任としての「自分の命」の存在である。
古い言葉だけど、含蓄がある。
(2010,4,1)
写真は青山墓地にて、満開の桜