デザインはアートだ

2010/03/17
今、デザイナーだと思っている若者たちに一言いいたい。これまでの先輩たちも間違っていただろうし、産業一辺倒の時代の環境がデザインの意味を歪ませてしまったのだろうと理解もしている。しかし、ここらでしっかりとデザイナーは何をすべきかを考えて欲しい。
デザインは企業の産業活動を助ける重要な仕事であり、デザイナーはその企業からデザイン料や給料をもらって生きているのだが、その前に人間の生活に重大な影響を与える環境をつくっていること、そして、同時にそれぞれの人間の「いかにいきるべきか」という問題につながっていることを認識してもらいたい。生活環境に重大な関わりを持っていることは殆どのデザイナーは意識しているだろうけれど、この「いかにいきるべきか」と関わっていることを忘れがちではないだろうか?

それはデザインを職業として捉えている人が多いことから来ている。デザインは職業である前に生きている人生の実体(中身そのもの)だということに気付いて欲しい。
職業、即ち、お金を稼ぐ手段としてデザインを捉えて欲しくない。デザイナーは「人間としての立場」と「プロフェッショナルな立場」と二つの立場があると考えたい。

僕は美を探すために生きていると言っているが、それが僕の人生の実体である。中身なのだ。家族で過ごすことも、恋をすることも、美術館を見歩くことも、なにもかも生きているそのものが「美を探すこと」だな・・・と数年前から気付いている。これは僕が建築家であり、デザイナーであるからではなく、たとえ僕が事業家だったとしても焼き芋屋であったとしても人生の意味は美を探すことだと言っていただろう。その上、デザインとはまさに美を探すことなのだ。デザインは美の表現でさえない。美の発見が目的である。探し続けて探し続けて消え去るのが人生なのだと思っている。

NHKに「プロフェッショナル」という番組がある。今、売れっ子の茂木健一郎さんの司会だし、内容も面白いから影響が大きい。プロフェッショナルとは職能のことである。職能とはその知識と経験を生かして顧客の抱える問題に解答を出す立場のことでる。弁護士なら依頼者の犯人の立場に立ってその人間としての権利を守る人である。デザイナーはデザインを依頼する企業の抱える問題、例えば「売れる商品を探したい」、という問題に解答を出してあげるのである。その解答にたいして企業は対価を払ってくれる。ゴルゴ13は決して相手を間違えたりしないし、同情して殺すことを止めたりしない。ちゃんと殺して対価を受け取る。

デザイナーは企業などの顧客のためにデザインをする時にはプロフェッショナルである。プロとして顧客の抱える問題に解答を出さねばならない。それへの対価としてデザイン料が支払われる。このプロフェッショナルな解答を得るためには、実はこの企業への解答以前の人間への理解や美への想いや世界の成り立ちについての考えを持っていなくてはならない。デザインは弁護士のように単に判例の知識や法律の知識だけで解答が出せないからである。
デザイナーはプロフェッショナルであるためにはプロ以前に自由人の立場でのそれらの深い思索が要求される。人間に深入りなくしては企業の要求には答える智恵は出てきないし、知識の加工だけで解答が得られるものでもない。

デザイナーに大切なのは常に自由人の立場を保持することである。自由人とはだれにも支配されないで「自分という人間について考え、行動することのできる人」のことである。ここでデザインを考えてもだれもお金をくれない。
自由だから奔放でいいし、時に脱線さえも許される。破壊的なことを通じてしか美が見つからないのならそれも許される。

このぶよぶよした、危ない地面に脚を置いて美を考える。人間を考える。世界を考える・・・。それは永久に続くことなのだがこの思索の後で人間や美が見えてくる。企業だって人間のために製品をつくるのだから、プロフェッショナルを離れた思索がいる。この曖昧で捉えどころのない立場が人間の立場なのだからここから始めるしかない。

プロフェッショナルは企業との契約でデザインをする。そこは当然、自由ではないし、破壊的なことは許されない。約束は守らなくてはならない。その代わり足下はしっかりしている。
時々、この二つの立場を混乱させているデザイナーに出会う。創作には自由が必要だ、とばかりに約束を破るのが平気だったりする。確かに、その自由人としての立場では許されることもお金を頂く契約の中での仕事にはプロとしての規律を持って欲しい。

そして、大切なことは自由人としての立場での「デザイン」は「アート」となにも変わらないことである。僕は「アートは告白であり、問いである」と言っているのだが、ここではデザインも告白であり、問いである。

この位置からデザインを考えれば当然、文学と同じようにデザインは可愛いだけでは済まされない。きれいでかっこいいだけでは済まされない。
文学がそうであるように、デザインも人をドキッとさせる恐ろしさが見えてくる。人生に悲しみも寂しさもあるようにデザインは深い心の底を映したものになる。職人はそんな仕事をしてきた。ダンスも絵画も文学も舞台もデザイン以外のすべてはそんな深みを持っている。

デザインだけが堕落したのである。生活に密着したこのデザインという領域の堕落は恐ろしい精神の堕落を、人間の堕落を予言している。
このままでは間違いなく中国のデザインが日本を追い越す。世界の極東という端っこにあった日本もこれまでは西洋と同様に奇跡的に先進国だった。アジアの時代になって、アジアの東の端に位置する日本はこのままではアジアの僻地になるだろう。中国の壮大な歴史の重みがこの現代の混乱する中国の人々の後に透けて見え始めている。

日本のデザインは全部、つくり直さなければならない。
(2010,3,16)
写真は北京のレストラン、「請有宴尚」の料理。歴史を秘めた現代的料理。