作り手と使い手

2009/12/30
安比高原にいる。まわりは雪。ゲレンデを見下ろすタワーの8階である。
殆ど読んでしまった筈の、でもまだ少しだけ残っていた山本兼一の「利休にたずねよ」を開く。ちょっと後戻りして読み直すとつながりがいい。
こんな文章が出てきた。千宗易が瓦職人の長治郎に茶碗をつくるように依頼するところだ。

手に馴染む茶碗が欲しい、美しい女人の白い手にも軽やかに馴染む茶碗をつくってくれといっている。ほどなく出来上がった茶碗を見て千宗易は、これは手に媚びていると厳しくいう。
デザインのことに想いを馳せた。人のためにデザインすることは人に媚びることではない。人のためにデザインしようと想うとどうしても人を歓ばせようと思ってしまう。使う人とデザインが、茶碗と手が馴染むようになるのならいいのだが、使い手を意識しすぎると使い手へ媚びることになってどんどん使い手からデザインが遠のいていく。自分の外に使い手がいると思うから馴染むデザインが生まれないのだ。
使い手が自分の中にいる、そんな時はそう思うといい。美しい女人の白い手が自分の心の中にあるときその手を実感して馴染む茶碗だってつくることができる。デザインだって、使う人が自分の心の中に描けたとき、媚びないデザインが生まれてくる。
自分の中に、使い手を描くとは自分自身が使い手になることでもある。自分自身が美しい女人になってデザインをすることである。
ピアノの演奏家が聴衆のために演奏をしようとすると、きっとその演奏は聴衆に媚びたものになるだろう。自分自身のために演奏する、そんな心境で聴衆が自分の中にいるとき、きっと人々はその演奏に感動するのだろう。そのことを僕は自分のために演奏しろ、自分のためにデザインしろといっているのだ。
もうすぐ満月である。
(2009,12,30)

写真は安比高原のタワーの窓から