偶然という原理

2009/12/05
命はどう生まれたか考えたことあるか。父と母のお陰でこの世に生まれ、こうして喜怒哀楽を生きている。必ず死ぬことを知りながらその死の瞬間まで一生懸命生きている。親しい人が死んでもう会えなくなった。死とは、生とはどういうことだろう。

僕の父はこんな話しをしてくれた。父は僕の母と結婚する前に、一度だけお見合いをしているのだそうである。その相手と出会って感動し、その人との結婚を心に決めたのだそうである。しかし、その帰りの道で彼の靴の紐が切れ、不吉な予感を感じて断ってしまったというのである。
もしも、靴の紐が切れなかったら父はその女性と結婚している。そして、僕の母と出会うこともなく、僕も生まれることもなかったのである。父と母が偶然に出会って、そして、僕が生まれた。それを「運命」といい「宿命」という人もいるだろう。でも、もしも父の靴の紐が切れなかったら、父と母が出会わなかったら、僕がここにいないことは確かである。

地球もそんな風に偶然、生命の星になった。生命体はこうして偶然に活動を始めた。地球の存在は宇宙の奇跡であり、生命の存在も偶然がもたらした奇跡である。

人生も事業も政治も経済も計画性が大切にされる。しかし、計画とは自在な命のざわめきを固定化し、人の意志に沿わせることである。混沌が生ならそれは死を意味する。人の計画の意志だけでデザインが生まれるとしたら、デザインはそれ自体死に向かう行為と言うことになる。人が計画し、デザインし、つくるとは自然の生々流転を固定することであってはならない。一輪の花が枯れるようによう枯れ、死にいくことを含んでいたい。滅びることを容認するデザインでありたい。

創作は偶然を拾うことである。僕が偶然に生を得たように、計画の意志を捨てて「偶然を拾うこと」が創作の極意なのだ。偶然起こる美の瞬間を待ち伏せるのだ。優れた焼き物は数十、数百の中から「偶然」を選んで生まれてくる。

恋は偶然。出会いは偶然。名作も偶然を拾って生まれる。
偶然を拾うとは計画の意志のその先に、それをも遮断して「宇宙の原理」に従うことである。自然の中の1人の生き物として振る舞うことで傑作が生まれるのである。

近代の思想は偶然を排除してきた。科学は偶然を否定し、計画の意志と精緻さを求めてきた。しかし、アートはむしろ偶然に生命力を見つけている。
アクションペインティングを持ち出さなくても、書の偶然の効果を認めない人はいまい。筆が生み出す滲み、或いは掠れた墨の色はただならぬ生命観を表現している。人の存在も頼りないのだが、感動的な美もまたこの頼りない偶然が導き出している。
人の命の儚さを人は知っている。そもそも、人の存在自体が儚く、偶然という宇宙の原理に従うことで成立している。それが感動なのだ。死をも肯定して偶然に支配されることこそ歓ぶべきことなのである。
(2009,12,5)

写真はハワイ、カパルアの海岸で
<以下の原稿は近々出版予定の「素材と身体(仮題)」(天地出版)と四季大金という企業雑誌に掲載予定の原稿です。前者は繁体語、後者は簡体語で二つの中国語で発表されるのですが日本語のチャンスがありません。そこでこの曼荼羅紀行に掲載しました>