極楽浄土

2009/01/08
 敦煌莫高窟の壁画の映像を見ていた。そこで出てきた「極楽浄土」という言葉にどきっとした。僕の探してきた美はこれなんじゃないか・・・、突然、そう思えてきた。一つずつのデザインが極楽浄土でありたいと、僕は思っていたことにやっと気付いた。
 こういう言葉は先がないことも知っている。こんな言葉に行き当たってしまうと、デザインとはなんぞやの思索が途絶えてしまう可能性がある。「極楽浄土」とは、そんな危険な言葉であることは確かだ。それでも、僕は一瞬「極楽浄土」
に美の究極を見たように思った。
 物があふれて物欲がますます昂進して、證券という得体の知れないものに物欲を満たす手段を求めてのこの金融危機なのだが、人と物の関係はどうあるべきなのだろうと、デザインを探す僕は考えてきた。その結果が人に役立つことではなく、人が愛することのできることだと思うようになった。人と人だって愛が究極だとしたら、人と物だってそうだろう。物への愛という危険な発想も、この極楽浄土に似ている。美とか愛とか極楽浄土という言葉に逃げ込むことでデザインの持つ矛盾に満ちた行為がシンプルになり、全てが解決してしまうことはいいことではない。
 大切なのは逃げ込むのではなく、「極楽浄土」も「物への愛」も求める苦渋に満ちた道のりの先にあるものだと感じることなのだろう。人への愛が未だ誰にも見えていないように、物への愛も極楽浄土も見果てぬ夢なのである。
 それでも、僕はあの瞬間を忘れない。「極楽浄土」、いい響きの言葉である。敦煌第220窟、見に行こうと思う。
(2008,12,25)