死と生命

2007/07/04
宇宙のどこかに生命のある星はないか、と真剣に探している人たちがいる。この無限に広がった宇宙だから生命の星はまさか地球だけではあるまい、というのである。それでも、まだ誰もそんな星を発見していない。どうして地球だけに生命があるのか?
広大な宇宙の一角に米粒にも至らない小さな星があって,そこにはなぜか命が芽生えて、そして人間という生き物が生まれた。人間は「意識」という物を持ち、生きているだけではなく様々に自分について考え、人間とはなにかを考え,人を愛し死を怖れて生きている。
その星に生息していて、見回せば同じ人間がたくさん居て、そして、樹々が風で騒ぎ、太陽が輝いているから何でもなくおもっているだけである。この生命の星の存在とその外に広がる広大な宇宙とは何かを忘れて生きている。

宇宙とは原子の世界である。空気もなく水もなく、生命の生き延びることを拒絶した世界である。このちっぽけな地球の外に出れば、ほんの少し外にでるだけで想像を絶する死の世界があることを思い出して欲しい。それはその言葉の通り、原子の世界である。

どうしてここに地球という「命の星」があるのか?これは宇宙の奇跡である。その奇跡の星に、たまたま自分たちは生きている。争い愛し合い生きている。この命自体が奇跡である。ほんのちょっとした偶然が生命を生み出し、偶然が重なって人間が生まれた。

しかもこの星が生まれてから今日までの時間は宇宙の時間と比較したらほんの一瞬である。自分の人生が一瞬であるだけではない、地球の存在が永劫の宇宙の時間からは一瞬なのである。宇宙の果ての小さな星の生命とその一瞬の存在期間。地球とは命とは奇跡という以外にない存在なのだ。

死の世界、原子の世界のそのただ中に偶然に現われた生命というもの。それさえも宇宙の摂理なのだろう。宇宙の摂理は偶然も奇跡もそこに包含しているのである。

ついさっきまで生きていた友人の死に直面して衝撃を受けた。死んだ人の亡骸は見ることが出来なかったのだが命の終わったその人の亡骸は生き物とは思えない姿だった筈である。抜け殻は原子の集合でしかない。魂はそこから抜けてどこかにいるのだろう.多分、僕たちの中にいるに違いない。でも死者の躯は腐っていくか燃やされて原子の海に溶け出していく。溶け出していく先は宇宙である。死とは生命の奇跡から抜け出して原子の宇宙に還ることなのだ。

奇跡の星、地球。そこで生息する我々人間と様々な生き物たち。近頃分かって来たことはそれらの生き物がお互いに別々の個体を持っていながらつながりあって一つの大きな生命体となっていることである。
地上の樹々は木の葉を散らし、腐敗して大地をつくりあげる。その肥沃な大地に多くの生き物が発生していく。雨が降るとその生き物たちは雨と共に海に流れて植物プランクトンを育てる、植物プランクトンは動物プランクトンを育て、それはまた小魚を小魚は大きな魚を育てていく。地上では草食動物は肉食動物のえさとなって彼らを育て、人間はそのすべてを食して繁殖する。地球上のすべてが連鎖してまるで一つの生命体であるかのようにつながっている。

自然とは命の星、地球のことである。美しい自然として人々のたたえる大地も森も林も海も生き物たちも、そして樹々を騒がせる風も水もそれを輝かせる太陽の光も、そのすべてが地球の出来事である。自然とは生命の星、地球のすべてを言っている。そしてそれは命そのものを意味している。

しかし、宇宙にはその命がない。宇宙は死の世界である。そして原子の世界なのである。こう見ると死の姿が見えてくる。人が生きている間は地球の出来事なのだが死ぬことでそれは宇宙の出来事になる。
死とは生命の世界から死の世界への帰還なのである。「行く」のではなく、「還る」ことなのである。

ある芸術家が創作をするその作品は、あるときその芸術家が死ぬことで地球に残される。芸術家は死んでも作品は残る。この作品はその芸術家の生の痕跡である。すべての人はこうして生きることをやめるときこの生命の星にその痕跡を残して宇宙に還る。

偶然に生まれた生命の奇跡を手に入れた僕たち.その僕たちが争いながら愛し合いながら過ごしているこの日常の出来事は奇跡の上に成り立っているのである。与えられたこの命、奇跡の命をどう愛おしみ過ごすか、死を思えば生が愛おしい。