デザイナーはものづくりのプロデューサーになれ

2007/06/25
「ものづくり」とはそれを<欲して>、その姿を<描いて>、いろいろ工夫して<つくる>ことなのだが、今のデザイナーはそのなかの<描くこと>だけをやっている。
マーケットが欲するからその通りにつくることがいいことだと思い込み、それが本当にいいものかを考えることをしないで<描いて>いる。「危ないぞ~、マーケットなんてどこにあるんだ?ちゃんと考えないと本当に使う人ではない誰かの欲求を満たしているだけかも知れない」と思うべきである。
ちゃんと<描いた>からといってそのようにつくられていくかは実に危ない。色々な企業内部の意見で変更される。担当部長の意見に社長の意見、販売店の意見などのせいで計画が変更されていく。
デザイナーは本当にはなかなか「ものづくり」の中心部に入っていけない。
<欲しているか?>、<それをちゃんと描いたか?>、そして、<間違いなくその通りにつくられたか?>、それが危ないのである。

僕はこれまで何十年も企業の依頼よりは<自分の欲しいもの>を<描いて>提案して来ている。デザインをレポート付で提案書にして企業に提案するのである。<依頼されて>デザインするのでない分だけ、自発性はある。だが企業に提案して実現するまでには障害が多い。企業が悪いという訳ではなく、<描くこと>と<つくること>の継ぎ目に問題があるからである。この<つくること>は<売ること>とつながっているだけに、<描くこと>と<つくること>と<売ること>の総合的な判断で没になることが多いのである。簡単にいえば「これはこうしないと売れない」となり、「こう修正しないと高価になるからうれなくなる」ということになる。

「ものづくり」とはこう言い直すべきなのだろう。「ものづくり」は<欲して>、<描いて>、<つくって>、<売ること>なのである」と。生産者から消費者の手に渡るまでを「ものづくり」というべきなのであろう。
そのすべての流れに責任を持って全部見ている人が果たしているか、ということである。結論から言うとデザイナーこそ、その責任を持つべきなのだが現在のものづくりの仕組からはそうなっていない。それにはいろいろな理由があるのだろうが、最大の理由はデザイナー自身にある。<ものづくりの全体に責任を持とうとする意識が低い>ことである。責任を持つためにはそれだけの能力が問われる。<市民の欲求を自分の欲求として掴む力>であり、<市民の購入の動機や販売の仕組を理解して企画する能力>であり、<価格をコントロールしながら生産者の技術と精神を理解して商品を完成させる力>がなくてはならないのである。
もちろん、一人のデザイナーがそのすべての力を持つことは難しい。大切なのはその力を持つ人々をプロデュースする能力である。
<市民>にはそれはできない。<つくる技術者>にもそれは無理であろう。<販売のサイド>からその立場の人が多く出ているのが現状なのだがこれでは「ものづくりの精神」は失われていく。<競争力のあるコスト>という価格競争でものづくりの魂が失われていく。市民の心を知り得て、生産者の、職人の精神を持っていて、しかも販売の立場も理解できる人はデザイナーをおいていない。

社会的要請として,<デザイナーはものづくりのプロデューサー>となるべきなのである。建築家はその立場を一部ではあるが持っている。市民(建築主)に接して直接<欲すること>を聞き出し、もちろん日頃から<人間にとって建築や街はどうあるべきか>を考えている。その上、建築家は初めから<生産技術を知った技術者>でもある。公共建築や個人建築ならそれでそのまま引き渡される(販売される)。マンション等の販売という行為が登場する場面でだけ、建築家はその関係者の意見を聞きだしている。要するに建築家はものづくりのプロデューサーでもあり得ている。
プロダクトデザインに欠けるこの問題をブレークスルーする出来事が待たれている。その時初めて文化性と産業性の一致したものづくりが実現するのだろう。