死のこと
宇宙と自然と命と意識と

2007/04/15
少しずつ死のことが見えて来た。死ぬとはどういうことかが分かって来た気がする。
宇宙と自然とを同じことのように感じていたのだけれど、どうもそうではないらしい。自然とは生命体の生息する世界。宇宙とは原子の世界なのである。そして、死ぬとは自然から宇宙に還ることのようなのだ。
こういうと唐突に聞こえるかも知れないが,こう言いきることが大切に思える。自然を意味する英語のNATUREはここでいう自然とは一寸違っている。日本人にとっての自然の意味は「人為が加わっていない=本性」という西洋のNATUREとは相当に開きがある。日本人にとって、自然は人間を取り巻く大きな生命環境をいうのが普通であり,ありのままという意味ではない。

頬をなぜる風、川の水や芽をふく樹々が自然である。日本人にとっては自分も自然の一部、生き物の営みを含むこの世界が自然そのものだと思っている。
もちろん地球には鉱物もあれば水や空気のような気体もある。鉱物も気体も生物にはなくてはならない生き物の生存の背景をつくっている。

生命を考えると実に不思議な気持ちになる。人の息を止めれば人はあっけなく死ぬ。怪我をして血がすべて外に出るだけで人は死ぬ。小さな心臓が止まったりしただけで人は死ぬ。それまで普通に話していた人もそのまま意識をもたなくなって,微生物に食われて腐るか、乾燥して空中に飛びちる。要するに原子となって宇宙に還る。この息を止めると言う簡単なことで人は死ぬ。死ぬとこの世から消えていく。この複雑で悩みも歓びもおおい生き物である人間の「意識」が、自分という「意識」もその時点で消え去る。
このほんのちょっとした人の変化が命をなくして死ぬことを意味している。肉体の死は理解できるのだが、死んで自分という「意識」がなくなることは、この自分自身がこの世界から消えることは実に納得しにくいことである。

生命は海で生まれたと言う。何かの偶然がこの生命を生み出した。自分がなにであり、どう生きるかを悩むこの命ある存在を生み出した。この命を生み出した地球の環境もまた宇宙の中の偶然のことから生まれたのである。この地球環境の中の海という水が生命を発生させただけではなく、水を断てばすべての生命は死を迎える。空気を断てばほとんどすべての生命は命をなくす。光を断っても同じである。光のないところで生息する動物や植物も光の力で生きている生物に支えられて生きている。
当たり前のことなのだが、空気を断ったら命がない、水を断ったら命がない。ということは地球にあるすべての環境が生命体と一つになった生き物のようにつながりあっていることを意味している。
地球に生き物がいるのではなく、生き物が地球環境と一つとなって,総体となって生命現象を成しているのである。

自然とはそのような生命現象のるつぼなのである。何一つ切り離して扱うことのできない一つとなったものとして自然がある。生き物の原理そのものを自然は意味している。

こう考えると宇宙と自然とは切り離して捉えなくてはならないことに気づく。自然という生命の原理が宇宙の中に生まれたのは奇跡である。奇跡だからこそ命を失った生命体はフッと自然と言う奇跡の領域から外に追い出される。自然は宇宙にできた,宇宙に漂う「奇跡の領域」であり,原子でできた広大な宇宙のほんの見えないような一点となって漂っている。
まだ、この自然のような生命の領域は地球以外には発見されていない。統計学的にはあり得てもそれは無限に小さい必然という偶然であり奇跡なのだと思う。その奇跡のボール状の領域,生命の領域は次々と生命を排出し,生命を増殖しながら、それでも少しずつその端から消えていく。一人一人が死に、一本一本の樹木が枯れていくことは自然と言う大きな領域がその周辺から原子の原理に還って行くのである。

常に変わりゆく宇宙の一瞬にだけ生まれた「奇跡としての生命とそれらと一つになっている自然というもの」がこうして僕たちのいる世界なのである。そしてそこに芽生えた自分という意識。人間に生まれたその意識が生命の誕生という奇跡の上に起こったもう一つの奇跡だったのだろう。そのために死を怖れ、死後の世界を考える。生命の何かを探り、宇宙の仕組を考える。この人間の意識が自然と連続的な一つであることに様々な否定的な発想を生み出してしまう。自然の仕組のなかでもう一つの内的な自然が生まれてしまっている。人々の内なる宇宙が自然との一体感を忘れさせ宇宙の原理に反抗する。生命にしがみつき死を怖れるのはこの意識のせいである。

本当は、死はそれほど怖れるものではない。死とは意識を失うだけのことなのだから麻酔薬のようなものである。意識を失うことが死なのであり、肉体だけが物理的に新陳代謝していても命とは言いがたい。だから死ぬ人には苦痛はない。残された人々だけがその人を失うのである。その意味では死は他者のものなのだろう。

その死が偶然であろうと運命であろうと、我々に残されるのは「祈り」だけである。残された寂しさに耐えるのも死者にはなんの想いもない。
生命自体が奇跡だったのである。その奇跡に感謝し、先に旅立った人の残した余韻を愛おしみ祈ることだけなのだろう。