死のこと
偶然と運命、そして、祈り

2007/02/24
「今日は死ぬのにもってこいの日だ」というのがある。
尊厳をもって自分の死をおおらかな自然観から捉えるネイティブ・アメリカンのセリフである(ナンシー・ウッド著/出版・めるくまーる)。
宗教が説く死生観ではなく自然の1部として生きる人間のセリフである。
人は事故などの人の死と出会うとき、どうしても「偶然」という言葉から離れられない。もう一分早く家をでていたらこんな事故に出くわさなかっただろうとか、あの時、自分が強く誘っていたらその時自分と一緒にいたのだから、こんなことにはならなかったのに・・・と考えてしまう。
この考えは運命や宿命ではなく、一寸したタイミングがその人を死に追い込んだという理解である。

人生は、そのほとんどを偶然が支配している。父と母の出合いがなかったら僕という存在はない。何億という精子達の卵子への競争で別の精子が先に到達したら、父と母が出会っていても僕と言う人間は生まれていない。
自分自身が実は偶然の結果としてここにいるのである。
宇宙での地球の生成も、そこに生命が発生したのも、この広大な宇宙の中での奇跡的な出来事だと思われるし、カオスでの偶然が生命を生み出し、意識をもつ人間に成長させたのだと思う。

人との出合いの偶然。美しい焼き物に見る偶然性の美しさ。たとえそれらが人の意志で偶然を誘導したのであったにしろ、偶然は偶然であり、どうやら生命的な、どきどきする美は偶然の力を借りずには生まれないように思う。

偶然は命も芸術も生み出した宇宙の根本真理とでもいうべきものと思えてくる。

一方、このすべての事柄を「運命」と考えることもできる。
事故死はその人の運命だったと考え、父と母の出合いも、精子と卵子の結合も運命だったと考えることだって出来る。
地球の生成、命の発生、人間の登場も超自然か神かが企てた運命だと考えるのである。
こう考えることで死者に来世があり、自分にも前世があると考えることが出来るようになる。

「運命」という考え方に切り替えることで友人の死を惜しみ悲しむことから少しは解放される。そう決まっていたのだから、もう一分早く家をでたところで同じ結果だった。自分がどんなに強く進めて外出をさせなかったとしても別の日に同じ結果になっていただろう。こう考えることが出来るようになる。

偶然という理解は「人生自体が偶然なのだから・・・・」と巨大な宇宙の真理を受け止めて悲しみから自分を救済する。運命という理解は「運命だからしょうがない・・・」と悲しみを乗り越えることができる。
全く対極にあると思われる「偶然」と「運命」は同じ意味に見えてくる。

「祈り」はこの偶然と運命を一つにつなぐ儀式に違いない。科学と心の統一など出来るものではないのだが、偶然という科学の概念と運命という心の概念が「祈り」によって一つになる。
死は科学的な偶然のもたらすものだと考えることと、死は運命と考える心のあり方は祈ることで融合される。祈ることで偶然を克服できる、祈ることで運命を変えられる。

偶然がつくりあげる壮大な宇宙生成のメカニズムの中に偶然に発生した、人間という生命のメカニズムは人に「意識」というものをもたらした。意識は宇宙の中に生まれたもう一つの宇宙というべき「一人一人の人の世界観」である。宇宙がどうあろうと人がどう考えようと自分という宇宙が回り続けている。

「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という自己を大自然の営為と一つにする心境にはなかなかなれないけれど、この意識は偶然を運命(=必然)と同じと考える究極の心のあり方に思える。