死のこと
宇宙とこの世

2007/02/18
一人一人がそれぞれの喜びや悲しみを感じながら生きている。恥ずかしかったこと、不愉快だったこと、思わず微笑んでしまったこと、思い出しても辛いこと、ふと感じる不安や寂しさ、嫉妬、侮蔑、自己嫌悪、でも頑張るぞ~と自分に言い聞かせる瞬間、そしてまた落ち込んでしまう瞬間・・・そんないろいろな想いの中に一人一人の人は生きている。人生は簡単ではない。毎日、毎日それなりに苦労してそれなりに楽しく生きている。
満員電車の中で身体を接しているたくさんの他人たちも、車で行き交う車窓の一人一人も、何でもなくやり過ごしているけれど、一人一人がそんなたくさんの想いを噛み締めて生きている。これは当たり前だけどいつも感じていては辛くなってしまうから人は無関心にやり過ごす。
元気?とメールをしても、マンションの玄関先でこんにちはと挨拶しても、その相手の人生を深く感じている訳にいかない。適当に表面だけで挨拶して仲良くしている気分でいる。
人は誰でもすべての気分を外には出してはいない。喜びだって悲しみだって他者は本当には分かってくれる筈がない。

そんな想いで生きている一人一人がつくる世の中は、いろいろな形でいろいろな事件が起こっている。新聞やテレビを賑わす出来事だけ眺めていても、人間世界の複雑さや猥雑さが逃れられないものに見える。汚職、談合、尊属殺人、嫌がらせ、不法投棄、政争、いじめと自殺、家庭内暴力、強姦や殺人事件、宗教対立、人種差別、会社のっとり、詐欺事件・・・と悲しい人の性が見えてくる。
それでも様々なボランティア活動だってある。研究会だっていろいろなところで開かれている。演奏会や展覧会や積極的で前向きな事件だっていっぱいある。

一人一人がそれでも一生懸命生きている。生きているってなんて大変なことなのだろうとも思う。生きているってなんてすばらしいことなんだろうとも思う。
考えてみると自殺とはこんないろいろな心の行き来を断って消去しようとすることなのだろう。この嬉しく、うるさく、命を縮め兼ねないいろいろなことの色々な想いの去来に耐えられない人が自分を救出する為に自らを消去するのが自殺というものなのだろう。

こんな風にいろいろなことが心の中や外に起こるのは「命」のせいなのだとおもう。命はそういうものなのだろう。命は成長と破壊と闘争と共感と希望と記憶と夢と絶望・・・、その他全部をその内に含んでいる。
どこでどのように命という現象が起こったのかは知らない。地球以外の宇宙にこのような命が存在することも予測されているが発見はされてはいない。ここだけに起こっているこの命という現象は宇宙のある種の「特異点」なのに違いない。特殊なあり得ない出来事。宇宙の瞬間的な異常現象がこの命という現象なのではないかと思えてくる。人類の長い歴史、生きものの長い歴史なんて宇宙の時間からはほんの一瞬にすぎないからだ。

宇宙のなかの生命体の歴史と空間は宇宙の大自然の側から見たら奇跡のようなものなのではないか。一瞬の異常現象でしかない。生命が異常現象であり特異点だとしたら、「死」こそが宇宙の普通のことだと言うことになる。死と言う普通の宇宙の有様に生命という異常現象が起きていて、その中に僕たち人類が所属しているにすぎないのだ。死とは灰になり煙になって原子に還ることである。ここには命以前の原子の状態が広がっている。ひょんな偶然がその原子の世界に生命をもたらしたのだから死こそ自然であり生命こそ特異点なのだ。

死とはこの世界からこつ然と消滅することである。本人には何の記憶もなく、遺伝子に記憶されることもない。「命」をなくして「死」の世界に移行することとは命のこの世界から本来の宇宙の摂理の支配する空間に回帰することなのではないか。死ぬとは考えることをなくし、肉体は腐敗するか火葬されて灰と気体になるか、他の動物に食べられ、消化されてエネルギーになるか・・・・、分子になり原子になることである。この命の消滅とはここにあげた様々な人の意識、憎しみや愛情や喜びや・・・様々な感覚という生命の現象のメカニズムを失って単なる宇宙の分子になることなのである。

自然や宇宙とは「この世」がそこに浮遊する大海のようなものであり、「死」とはこの世から大海に還ることなのだと思う。この世に住んでいて、その外にある「あの世」に移動するのではない。この世は宇宙に漂っている特異点であり、死とはそこから広大なる普通の宇宙に解放されることなのだと思う。
宇宙で繰り返されている様々な事件、その一つが生命現象を生み出した。我々はまるで天動説のようにこの世を中心にして死後の世界を考え、宇宙の仕組を考えているにすぎないのである。まぎれもなく人々は今でも天動説を信じている。

それはそれでいいだろう。
何もこの世を宇宙の果てから眺めて考える必要はない。自分の視線で自分を中心に考えるのでいい。
やはり、意識の世界では自己が中心である。今が中心であり、地球が中心であり、この世が中心であることに問題はない。そこで繰り返される出来事はそれこそ生命現象であり、生命を歓ぶのならこの喜怒哀楽のすべてを歓ばなくてはならない。この世に居る限りその命の力に翻弄されてそれでもそれを歓んでいるべきなのだ。

僕はもちろん死など望んではいない。この世と言う特異点の、生命の矛盾だらけの現象に身を投じ続けるであろう。人の死を悲しみ、人の笑顔にほっとし、真実を探すための新しい挑戦に身を投じ続けるであろう。それにどんな意味があるか等と考えることなく探し続けるに違いない。

デザインはそのような人生の乗り物である。そして、いつか生命という特異点から逸脱して死というより広大で普通の宇宙に乗り出すことになる。そして自然に還元される。それはこの世の境界となっている膜を通り過ぎるかのように突然そこへ呑み込まれる。
この世から見るとまるでフッと消えたように見えるに違いない。それを昇天と表現しているのだろう。