死のこと

2007/02/10
大連の友人が突然この世から旅立った。
東京にいる僕には始めからその友人の存在が、毎日会う訳ではないから現実感がなく、その死がそれ故に現実に思えない。
まだ出会って1年にもならないのだがメールのやり取りで気持ちだけは心の、結構深いところに侵入し合っていて、その死がとても辛いのだけれどその死からまだ12日しか経過していないこともあって未だに実感が湧いてこない。ただただ喪失感だけが残されていてその感覚が1日に何回となく蘇ってくる。
その友人の存在が始めからはかない夢のようだったから、そのまま本当の夢になってしまったと言うのが当たっている。
存在感の薄い人だった。始めから心だけがそこにあるような人だった。自分の意思もあまり表現しない人だった。その存在感の希薄さがそのまま非存在の彼方に消えていったのだと思う。
そんな人の旅立ちが僕の心にこれほど大きな喪失感をもたらすということが僕自身信じられない。存在感が強い人ではないのにどうしていつまでも消えていかないのか。

旅立った友人はこの僕の気持ちを全く気づいていない。友人は自分が死んでしまったことにも気づいていない。死者は単にこの世から消滅しただけで、本人にはなんの出来事も起こっていない。
起こったのはこの世にだけであることが不思議だ。心に穴を明けたり悲しませたりするのはこの世に残った人達にだけである。
この何ともやり切れなさを、死んだ当人に伝えるすべがない。このことが当たり前なのだが実に不思議なことである。

誕生の瞬間は、人は何らかの記憶を身体に残しているだろうと思う。無重力に近い浮遊する羊水のなかでの安楽な日々、呼吸もいらない食事もとる必要のない環境から突然、この世に絞り出される感覚はきっと苦しい、恐怖に満ちた出来事だったに違いない。母親の胎内から必死で、血まみれになってこの現実に生まれたその記憶は、本人だけではなく、数百年前の先祖も感じたことだったに違いないし、きっと僕が継承している遺伝子の中に情報としてその感覚が入っている。だから誕生の瞬間は記憶の中にしっかりとある。それなのに死の瞬間の記憶は僕の中には全くない。記憶が遺伝子に蓄積される仕組がないからである。死者がその遺伝子を次の世代に残すチャンスがない以上、死の記憶は記憶として存在しない。それほどに死は人々にとって常に未知のことなのだ。
死者は消滅しただけであり、この世の出来事に生物学的にも遺伝子学的にも無関係なのでる。
生きている人の中にだけ死者の思い出が残される。それを死者に伝えるすべがない。死者との回路が欲しくなるのはそのせいだろう。そして死者との回路を取り持つ人や死後の世界を構想する宗教が登場するのだろう。

いずれにしても、死を誰も知らない。想像すら出来ない。死は宗教の力を借りて創作するか、さもなくば、単なる「消滅」としてしか理解できないのである。

死んでしまった友人に会いたいと思う。死んでしまって何を思っているか知りたいと思う。でもそれは叶わぬことなのだ。つい最近まで2週間後に会おうと約束していたことも突然の事故による死はその約束を何の言い訳もなしにキャンセルしてしまう。

だれでも死は訪れる。それも当たり前に、ある時突然訪れる。人々はほんの一部の人を除いてその人のことを忘れ去る。時々思い出したとしてもそれだけのことである。死はそうして「死んだ人には何事もなく、生きている人に衝撃を与えて」訪れる。それも時間と共にその衝撃は消えていく。微かな愛おしさや悲しさを残して、その人の面影も過去のことにしてしまう。

自分だってそんな瞬間が訪れる。だれにも記憶をされない、小さな死。自分の死を知らないままに僕もこの世から消滅するのだろう。
そして、周囲の人々に小さな影響を与える。それはまさに鐘の余韻のように、近くの人々に様々な思い出や時にトラブルを残して少しずつ消えていく。
死について、大切なことはどうやらその余韻だけなのだとおもう。本人は死を知らないままに消えていくのなら、この世に響かせる一寸した余韻だけが死の証明となるだろう。死の設計があるとしたら余韻の設計ということになる。

真剣に生きて、死の瞬間は単にフェードアウトしたいと願う。矢のように生きて落ちることなく、そのままポッと消えたいと思う。
友人はどうしているのだろう。消えただけの友人はただここにいないだけだ。その余韻だけが僕を寂しくさせている。残されるより死ぬ方がいいなとふっと思う。