命の二つの力
新しい年に思うこと

2007/01/01
何も変わるわけではないのだが新しい年は気持ちがいい。誕生日にしても正月にしても,だらだらと動いていく月日に区切りを付けて、正月だ、誕生日だと再出発の日を決めるだけで命が蘇る。さあ、今日の始まりだ!と毎朝思うだけで再出発できる。
時というのは空間と同じように連続的なのだが、人がそれにかかわると途端に違う様相を持ち始める。今と言う一瞬はそれが刻々と移動してとどまらないのだが常に<これまでの過去>と<これからの未来>を今の後ろと前に持っている。
問題はその<これまでの過去>と<これからの未来>の間にものすごい断絶があることである。
今はこれまでの巨大な過去の記憶に縛られている。自分自身の生まれてからの記憶だけではなく、生き物が生まれて以来の記憶が遺伝子の中に蓄積されていて、今の自分の価値観を決めている。価値観などと言わなくてもいい、本能的な、生理的な反応とでも言うべき行動の仕方がこの自分の中の遺伝子の中にある。
未来はというと未だに経験したことのないことだから、ど~~と進む人生の最先端にいる今という位置から微かに予言したり予感を感じたり、夢見たり、計画したりする霧の中である。
人間は不思議なことに二つのとんでもない力を持っている。一つはネガティブにもう一つはポジティブに二つの力が自分を支配している。しかも今と言うこの自分を支配しているのだ。
一つは<底知れぬ不安>の中に人間がいることである。人が何かを主張したり、人を愛したり家族を大切にしたり、時に戦争を始めたり、宗教に没入したりするのは皆この<底知れぬ不安>からである。
これが何から生まれたのか、多分生まれた瞬間から始まった、生まれたことからの不安なのではないかと思っている。これは仮説なのだが人は生まれる前には母の子宮のなかで自分の体温と同じ温度の環境で羊水に浮かんで無重力の環境に、しかも、呼吸もしなくていい、何一つ食べる必要のない安逸な状態で生きている。誕生とはその平和に生存していたところに突然母体から絞り出されることなのである。それが生誕なのだとしたら、凄い苦痛以外の何ものでもないのではないか。その瞬間から人は重力場に置かれ体温は失われ、呼吸をしなくてはならない、何かを飲まなくは死んでしまうという環境に放り出される。
生誕は人間の側からはおめでたいことなのだろうが生まれる子供には苦痛と恐怖の瞬間なのに違いない。この経験は生命の歴史の出発点から遺伝子に記憶されている。<底知れぬ不安>はこうして単なる不安ではない<底知れぬ>、そして<救われない苦痛>として人間の生命の中に潜んでいるだろう。
こうして生誕の記憶は誰の中にも遺伝子の中にもあるのだが、面白いことに、死の記憶だけはどこにもない。死んだ後でその遺伝子が子供の中に伝わることは決してないからである。
こうして生命にとって死は今日まで経験のない未知の世界だったのである。
もう一つの力は<わき上がる命の力>である。人は誰でも未知の未来に対して、遺伝子情報の中にも何一つない未来のことをこれまでの生の記憶から判断をする。その判断がたとえ悲惨な判断、決して良くはならない予測がついたとしても、それでも人は未来に夢を持ち、未経験の未来に予感することが出来る。その力はどこから来るか判断がつかないのだがそれでも命の力が<なんとかなる>と人に判断させたり、<どうにかしてみせる>と決意させる。
人はこうして<底知れぬ不安>と<わき上がる命の力>の狭間で生きていく。正月や誕生日や、毎朝の決意はこうして人間の不安からの脱出を目指すことなのだ。
少しずつ老いて死んでいくのではなく、生きて、生きて、生き抜いて突然、フェードアウトする、そんな死に方がいいと思う。放物線ではなく、空に延びる直線のままにボッと消えたい。