「日本の美意識を想う」

2006/10/27
コンピュータのデスクトップの片隅にこの原稿を見つけた。一寸季節外れだが掲載する。
今年の秋はまだ曖昧に始まって本格的な秋晴れを見せてはくれてはない。ほんの一日深い秋の空だと思ってもすぐ曇りになり雨になる。
日本はなんて多様な気候を見せてくれる国なのかと思う、そしてそのことが日本人の多様な美意識を育てたのだなとふっとこの秋らしくない秋にも感謝したくなる。
秋らしくない秋に秋を感じ、雨の降る日にもその美しさを愛で、風の強い日にはその風が好きだったと少年の頃を思い出してそれを楽しむ。夏は暑くなくっちゃな、とあきらめではなく本当にそれを楽しむ。
そうして、日本人はその自然観を育てながら多様な美意識を培ったのだろう。
つい最近、「八つの日本の美意識」(講談社)という本を書いたのだが、その概要をジャスパー・モリソンが読んで「どうしてこれほどに多様で深い美の感覚を日本人は持っているのか」と驚いていた。
こうした自然への思いがこの日本人だけの優れた感性を育てたのだろう。
最近、中国へ出かけることが多いのだが、多くの中国人と付き合いを深めていくと一人一人の中国の人々との共感とは裏腹に中国の文化と日本のそれとの大きな隔たりに今更ながら驚いたりする。
日本はアジアの国々、特に中国や韓国を経由して世界の宗教や文化を受け入れて、まるで文化のゴミ箱のようにそれら受け入れ共存させてきたのだが、ごった煮のような単なる共存ではなく、どこにもない独自な文化をつくりあげて来たことが奇跡のように感じられる。それほどに独自なのだ。東洋の美意識と一つにまとめて語ることができないほどに、我々の美意識は東洋の国々のそれとも異なっている。西洋と東洋と単純には対比できないなと思う。
その根源は自分というものの世界との関係の捉え方にあるように思う。秋晴れの紅葉の秋を歓び、雨の降る寒い哀しい秋を愛で、夏の名残をそこに見いだしていとおしみ、枯れ葉となって散り始める秋の終わりに命の美しさを感じる。死をも生の一つの形として受け止めるこの自然観、生命観に根源があるのだろう。滅びることを歓ぶ、この意識なくしては中秋の名月を愛おしむ気持ちは生まれない。そこを出発点として人への想いや美の概念や街の構造や建築の空間が、そして作法や愛し方が生まれ美意識が育っていったのである。
近代の思想の奴隷であったこの明治以後の日本人の意識は今、やっと解放されようとしている。本来の日本人に戻ろうとしている。そして世界の多くの人々さえもそれに気づき始めている。日本の美意識に未来の世界を示唆する秩序感があることを感じ始めている。