器に思う
その二「碗と皿」

2006/10/15
椀と碗。椀は漆器などの木製の場合、碗は磁器や陶器の場合に用いるそうである。同じ発音でも漢字は正直にその素材や感触まで伝えている。英語だと単に「ボール」だから深い身体感覚での意味までは伝えてくれない。
それはさておいて、器には碗(椀)と皿がある、と思う。皿はその出発点をへぎ板(板を裂いてつくった食器)などに求めることが出来る。葉っぱや板の上に食べ物を乗せて食べる、固形物のための器である。それに対して碗(椀)は二つの掌をあわせて水をすくい口に運ぶあの掌から始まったのではないかと思う。そしてそれが半割の椰子の実になったりして焼き物や木でつくられるようになったのであろう。
碗はだから基本的に手で持ち口に運ぶ器である。それ故、手触りや口触りが大切になる。皿は手には持たない。岩や地面などの上に清潔さを保つために食物の下に敷いた食物用の敷物のようなものが出発点であったのに違いない。要するに食卓の延長線なのだ。
西洋ではこの皿の文化が育ち、日本では碗(椀)の文化が育ってきた。
皿の文化を育てた西洋では箸は育たない。器を手に持たない西洋ではナイフとフォークとスプーンが食物を口に運ぶ道具として発達した。日本では器を口に運ぶことが出来たのだが西洋ではそれが出来ない、そのためにスプーンが生まれたのだろう。口元まで食物を椀や深皿を運ぶことが許される日本では始めから不安定な箸でも問題がない。

碗が大きくなると鉢になったり丼になったりする。これも碗の一部である。どうやら大切なのは、碗は手の一部であり、手の代理であることであり、皿は食卓の一部であることである。鮨やのカウンターの、鮨をそのまま置く、あの磨き立てた板は皿の出発点なのだろう。そして、煮物の多い日本料理には皿が変化して深皿になる。
碗(椀)は手から発達しただけに手のサイズをでることはない。そして持ち上げて口に運ぶために高台の位置も大きさも重要になる。

皿は人からはなれてテーブルの一部でしかないのだが碗は掌なのだから身体的感覚と深いつながりがある。重さや形や素材感が重要になり、心がこもる。皿も椀も料理の背景を成すものなのだが、椀はそれだけではない深い素材への思いがあり、思想がある。
碗(椀)と皿に器の原点を見た。