器を思う
その一「漆器椀のこと」

2006/10/09
器(うつわ)って何だろうといろいろ考えている。その思いと想いをいろいろな形で書き記していくことにする。

もう二年ぐらい昔からになるのだが、朝食をパンからご飯に切り替えて日本式の朝食を始めた。理由は健康なのだが和食はオイルを使わないし、用いる素材が多様でいかにも健康にいい。
始めは何でもない茶碗を使っていたのだが、そういえばすばらしい漆器の碗を頂いたのだったとしまい込んでいた二つの漆器の椀を持ち出して使いだした。
一つはご飯にもう一つはみそ汁に。その二つともそれぞれ優れた作家か職人の作品だから食べていて気分がいい。手触りも口障りもよくて急にご飯もみそ汁も美味しくなった。
よそい方も丁寧に白いご飯をそっと真ん中にきれに盛りつけるようになる。みそ汁もちょうどバランスのいい量だけを盛ることになる。朝ご飯に美しさを気にしている自分に気づいた。美味しさがもっと深くなる。

手に感触がいい。適度の暖かくなったご飯のお椀は黒で手に馴染む。みそ汁のお椀は赤なのだが重さといい感触といい、その上格別口触りがいい。
これまでの食器だと、食べ終わってそれまでそのまま台所の流しに重ねておいていたのだがそれが出来なくなった。終わるとその二つの椀だけは自分でぬるま湯に浸し、手の指で優しく洗う。そっと布巾で拭いて自分で所定の棚にそっと置く。

美しいとそっと大切にしたくなる。美しいとそれを用いる行動の全部を美しくしたくなる。不思議な感覚である。
福井の漆器やさんの、若い社長がこんなことを言っていた。息子が生まれたので息子のために椀をつくったのですよ、という。彼は漆器の椀は一生ものでありいつでも修理が出来てこの息子の椀は息子が生涯使うものと考えている。
親父がつくってくれた漆器の椀を息子がずっと使い続ける、このことに感動してしまう。理屈ではなく、漆器のお椀の意味が深いところで分かったような気がしている。