サービスということ

2006/10/04
美容院にいくと先ず、頭を洗ってくれる。その度に思うのだが折角気持ちよく洗うに任せているのに洗いながら常に声をかけてくる。「首の様子は大丈夫ですか?」、「お湯の温度はいかがですか?」、「洗い残しはありませんか?」、「濯ぎ残しはありませんか?」と少しも休まる間がない。その度に苦虫をかみ殺して「うん」とだけいっている。
洗ってくれている若い男性はきっと見習いで、いろいろな気遣いをすることがサービスだと思っているのだろう。お客様の快適を求めて一生懸命に不具合はないか気を掛けてくれているのだろう。でも果たしてこれがサービスだろうか?
鮨屋に行くと僕はいつも黙って出すに任せる。先ず、どんなネタが今日は一番いいかを知っているのは鮨職人だ。今日のネタの様子を知った上で、お客の気持ちを押しはかって、出すテンポも客の様子によって変えている。

「何を握りましょうか?」と聞くのはまだいいとして、「シャリは多めですか少なめですか?」、「ネタは大きめがいいですか少なめがいいですか?」、「わさびの量はいかがしましょうか?」などと聞いて握る鮨屋はいない。そんな鮨職人がいたら相当に安くてまずい鮨屋だ。

優れた鮨屋は相手の気分をしっかり把握してサービスする。それなのにどうして美容院の洗髪はいつもこうなるのだろう。
ちょうどいいお湯加減はいつもやっていれば分かる。洗い残しや濯ぎ残しを自分で分からないようではプロではない。何も聞かないでバチッと決めてくれるプロであって欲しい。

人に何かをするとはそうしたものである。よほど特別な状況でない限り何も言わないのに快適な洗顔やうまい鮨を提供してくれたらこれに勝ることはない.その上で、個性や気分で注文を付ければいい。

デザインを考えてもそうだ、住宅の設計のとき、すべてを任せますよという客が一番怖い。プロの腕を試されているからだ。いっぱい注文を付ける客だと「ああ、僕じゃなくてもいいんだ。だれでもいいんだ」と思ってしまう。住む専門家なのだろうけれど家を設計する専門家ではないのだから本当は任せればいい。プロダクトデザインも思い違いしているデザイナーが多い。ユーザーのためだからユーザーの意見を聞くことが大切だと思っていたりする。特に不特定多数の顧客のためであるプロダクトデザインは、顧客の意見を気にしていてはいいデザインはできない。

要するにプロならちゃんと自分の意見を持て。自分の意見でデザインをしろといいたい。自分の意見を持たない輩が親切そうに顧客の意見を聞くだけのことだ。自信がないから人の意見を聞くにすぎない。意見を聞いたから何となく自分の責任がないかのように思えて安心しているだけである。

サービスとは、だれでも歓ぶであろうことを自分の意見で見つけ出して、自分の責任で黙って手配することなのだ。普通だとか普遍だとかはこうして自分の意見として見つけ出される。プロとして確信する間違いのない美味しい鮨を提供することが普遍という名を冠することのできる誰にでも美味しい鮨なのである。美味しさについて深く追求することで見えてくるものなのだ。
確かにその鮨職人の技量、才覚が左右する。その鮨職人という個性的な存在の人間がもつ思想や意見がサービスを左右する。この特殊な人間が職能のプライドを掛けて持つ自分の意見、それこそが普遍的な「うまい鮨」なのである。