能登半島、珠洲のさか本に泊まる
「特殊と普遍」

2006/10/01
何でもない漁師町をすぎて町並みを少し入ると突然雑木や竹林の木立が迫って一車線の山道になる、このほんの少しの、まるで儀式であるかのような導入部を抜けると空き地に二三台の車が止まっている。

年老いた柴犬かその雑種かと思われる犬と二人の子供がいる。一人の子供が楓の木の4メートルはあろうかという高さの小枝に身体をかけて揺らせている。もう一人の女の子は何かお気に入りのものを手にもっている。

薄暗い玄関はこぎれいで外からの光が美しい。ここは確かにあのさか本なのだが誰一人でてはこない。旅館の記憶は入ったとたんに聞こえる「いりゃっしゃいませ!」という声なのだが静かなままで誰もでてこない。どらがあるのでそれをならす。やっとでてきて「お入りください」という。


案内されたのは黒塗りのつややかな床と柱梁の気持ちのいいちょっと大きめな部屋である。そこから階段を上って畳の敷かれた部屋は6畳間。ちょっとしたアルコーブに小振りの文机と鏡台と和紙ばりの灯りがあって後は扇風機が場違いにちょこんとあるだけである。文明の産物はこれだけだ。

外の風景はすばらしい。もちろんなんでもない自然のすばらしさだ。秋が近くて虫の音が聞こえ、たまたま昨日と打って変わって32度の暑さ、風もない。

入ったところには艶やかな焦げ茶の自然の形を生かした大きなテーブルがある。ここで二つある二階の部屋の住人とちょっと離れたところにいる住人が食事をすることになる。この宿の客室は3つだけなのだ。

入ったときに「どうぞ夕食は6時ですからお風呂に入ってください」と自然な当たり前の声で伝えられる。どこに風呂があるかも言わない。それはすぐに文机の上を見て分かった、さか本の平面図がそこにあったからである。宿帳さえ書かない、何の説明もない、迎えてくれたのはすばらしい黒光りする床のある穏やかな空間とその外に広がる何でもない山あいの自然と犬と子供たちだけである。それですべてが了解済みになる。僕はそこでわざとらしいことの一つもない穏やかな歓迎を受けている。

料理は数種類の皿がでる。蟹や野菜と茸の煮物や様々なのだがそれぞれがしっかりとしていて薄味のひとつずつの味がけんかをしない。飯がうまい、お茶がいい。

このごろの温泉旅館の数十に及ぶ豪華な小さい珍味の寄せ集めのこれでもかこれでもかという料理は数さえそろえば喜ぶと思っているのだろう。

サービスって何なのだろう?と考えさせられる。ちょっぴり気取っているのは高橋さんという地元の建築家の土地のつくり方でつくった宿の建屋だけである。宿帳も書かないで入り込み要求もしない、宿の案内もしない、食事は決まった時間に決まったところで頂く。要求すればなんでも答えてくれるのだが要求がなければ放りっぱなしである。宿の女将が誰かも分からない、挨拶があるのでもない。まるで自分自身が住民であるかのような錯覚に陥る。

そのくせ、豊かな自然、そう・・・自然な自然と、外から入る僅かなそよ風と、虫の音。食事のときにはキース・ジャレットのピアノが、風呂の外には竹やぶが見える。庭には鶏とその先には蓮池があって白い蓮の花を咲かせている。部屋には虫が入り込みまるで自分も連れの客のような気分でいる。

空調はない、電気のスウィッチはなくて笠のところのネジをひねるのだ。もちろんテレビもラジオもない、新聞もこない。電話もないし携帯電話はつながらない。インターネットなど宿の人にあるかないかを聞くこともはばかられる。

だれもが否応なくこの文明を避けた環境になじみ、不満を持たない。当たり前に受け入れてその評判は広がっている。

客のために何かをしようと思っていない。自分がこういうのがいいと思っているだけなのだろう。そして、同じ考えの人をそっと自然に誘っている。押し付けがましさがないのはこの自分がそう思っているというところなのだろう。

人のために何かをすることがサービスではない。自分の生活をそのままに人を誘うことなのだ、人と人が共感しようとすることがサービスなのであろう。

環境というものと道具というものはここでは同じなのだと考えればいい。量産品だって消費者のためにと消費者を喜ばそうとすれば普通の温泉旅館のようになる。自分の思想を描きその思想に賛同する人に呼びかけることなのだろう。供給するメーカーやそのデザイナーたちがそれを使う人々と共感するためにつくっているのだということこそ大切なのだろう。

大切なのは自分の思想なのだ。自分の考えさえ一つの秩序をもった世界を持っていてそれさえ示していれば、人はそれに賛同する人だけ集まる。人の為に何かをするということではなく、自分をそのままさらけ出すことなのだろう。

特殊な自分というものから出発してこそ他者との本当の共感ができる。特殊性から出発してこそ普遍的な共感に至るのであろう。
(9月10日、さか本にて)