• 2008/06/27
    突然だけど、ふっと思ったことがある。
    それは「死の世界が初めにあり、そこに生が芽生え、再び初めの死の世界に戻る」のだということである。
  • 2008/06/19
    僕のこれまでの仕事は殆ど「依頼されたプロジェクト」ではない。いつも「やりたいこと」が生まれてそれを実現するために「プロデュース」して実現してしまう。だから嫌いなことは殆どしないで今日まで来ている。その代わり「やりたいこと、実現したい物」をいろいろな可能性を探って努力をする。実に沢山が実現したけれど、反面、実現しないで未だに粘っているテーマもいっぱいある。
  • 2008/06/18
    いやはや、実に面白い。Kを始めてから興奮の連続である。デザインはこうしてプロダクションに関わることでその意味の深さがどんどん見えてくる。
    初めはつくることからKが始まった。職人にはなれないからせめて「システムとしての職人」を目指したプロダクションの組織だった。そしていろいろな作品が生まれた。多くの職人やメーカーが協力してくれたから価格は決して値切ることなくいいなりに原価が決まっていった。
  • 2008/06/16
    ECOは社会意識がなければ実現しない。自分だけのことを考えている人にはこの発想は生まれない・・・こう書くと「そうだよ、そうだよ!」という声が聞こえてくる。
    もちろん、そうなのだけれどそれでは本当にはECOは実現しない。
  • 2008/06/12
    人生を放物線のようには生きたくないと思っている。頂点があって次第に衰えていく人生は断固拒絶したい。思いっきり生きて「ぱっと」消えたい。
    この生きるってことには二つの力が必要だなって思う。一つは「努力」で、もう一つは「夢」だ。「努力」は人生を後押しする感覚の力だがもう一つの「夢」は人生を引っ張る力だ。
    人生は後押しと引っ張る二つの力でまっすぐ動いていくのだと思う。
  • 2008/05/29
    Kという会社の商品は全部、雑貨だとしている。雑貨というのは英語でもなかなかぴったりの言葉が見つからない。
    しかし、日本語でのニュアンスは面白い。雑というのが面白い。
  • 2008/05/02
    Kの作品には13の主要なブランドがある。そのロゴタイプを13人のアートディレクター達がデザインしてくれた。長い付き合いの友人達が9人と新進気鋭の、僕が初めて出会う若手のアートディレクター達が加わって一挙に13のロゴタイプが生まれたのである。それぞれのロゴタイプは僕の作品と対面し会話して発想してくれている。
  • 2008/03/03
    いよいよ、3月5日からニューヨークに乗り込む。株式会社Kがニューヨークを拠点に販売を始める。55コンテンポラリーというニューヨークの会社がKのディストリビューターとなってここから北米大陸全体へ手を伸ばしてくれる。
    3月6日から9日までHOME DESIGN SHOWのNO.850 で展示し、その後、11日には55コンテンポラリーのショールームで展示し多くのニューヨーカーを迎えてレセプションが開催される。
  • 2008/02/12

    南極点Mummにて乾杯
    南極極点制覇!やっと嬉しい情報が届いた。続素美代さんが遂にやったのである。彼女は日本人女性で三人目のチョモランマ登頂者である。この南極極点制覇とチョモランマの両方を制覇の女性は彼女が最初らしい。
  • 2008/02/05


    柿谷さんという家具作家がいて、もう大分前に訪問したことがある。高岡の森の中に工房を持っていて、奥さんがパッチワークをやっていて二人で素晴らしい素朴な建物をつくって作品を展示していた。柿谷さんは作家というより心は職人なのだがそこが好きだし、なのに現代の生活感情にしっかりと馴染んでいるあたりが凄かった。谷間に降りると温泉があって入浴したのだがこの世とも思われない環境だったし心境になった。
  • 2008/01/21


    金箔の皿をつくった。食器といってもけやきの生地に金箔を張り重ねた漆器なのだからどの程度の使用に耐えるのかがまだ分からない。
    金箔は兎に角美しい。どうしても禁欲的にデザインを展開して来た僕には金箔と出会わなかったら決して考えもしなかったものなのだが,美というのは実に不思議である。出会って,そして惚れ始める。女性との出合いと似ている。
  • 2007/12/20
    2007年11月に中国・アモイの四つの大学で「デザインの修辞法」というタイトルで講演会をしてきました。延べ2000人を超える若者たちに大歓迎されました。中国のいろいろな面を日頃から感じていますが、この若者たちの純粋な瞳を思い出すとほっとします。
  • 2007/12/07
    今年は激しい一年だった。身体が2つも3つもほしい忙しさだった。2月に中国の友人の事故死、4月に新会社Kの立ち上げ、8月には久しぶりにマダガスカルに息子を訪ねて9月には新会社の対外的発表会。秋はデザイナーズウィークのタイミングにネクストマルニとの共催で新会社のK展を開催、兵庫での文化デザイン会議もあって忙しい文化の秋になった。
  • 2007/09/23
    日本は世界の他の国と一寸様子が違う。日本独自の芸術があり日本では充分に評価されているのに世界では全く通じないことがあったりする。日本画がそうだし伝統工芸がそうである。着物の職人がどこまで世界で評価されるかというと当然、殆ど無理なように、日本の独自な芸術は日本独自な文化の領域で閉鎖的に育てられ守られて来たために今日まで続いてきたのだが、同時に世界的な評価の域外に置かれている。
    茶道の仕掛けがそれを育て、守った重要な思想であり作法なのだが、それも残念ながら新しい時代の波がその質を変えつつある。着物も伝統工芸も日本画もまだその世界は元気に見えて実は産業としては一部を除いて、零落の道を辿っている。
  • 2007/09/19
    展覧会が始まった。本当は10月31日から始まるル・ベインでの東京展が最初の発表だったのだが、縁あって、オリエンタルホテル広島のギャラリーでのデビューとなった(オープニングパーティーは11月1日)。
    以前、曼荼羅紀行で触れたことのある株式会社Kの商品が、アライアンス企業の努力でやっと日の目を見たのである。
    9月7日と8日になんとか間に合ってプレスの皆さんと一部の友人達には披露したのだが、こうしてパブリックへの発表は9月14日のこの日が最初だった。当日、オリエンタルホテルのチャペルで展覧会と同じタイトルで講演会が開かれた。100人の収容人員にそれを超える人々が集まってくれた。
    僕は「なぜ株式会社Kを始めたか」をここで説いた。
  • 2007/09/18
    招かれて台湾に行った。コンペの審査とアワードの審査、そしてフォーラムへの出席が目的だった。
    久しぶりの台北は綺麗だった。時々通う上海の印象があるから緑豊かで清潔な台北はちょっとビックリだったけれど、考えてみれば当然なのだろう。
  • 2007/08/20
    王宮で寺院。その融合した世界と言うべきか。緻密な装飾が驚異的である。映像だけで十分だろう。
  • 2007/08/19
    マダガスカルには今はタイのバンコク経由がいい。僕の最初の訪問はパリ経由だったのだが、シンガポール経由の時代を経て,今はバンコク経由である。途中で小さな島で給油して,全部でバンコクから10時間程、日本から時差は6時間である。その経由地で冒険から抜け出してやっとバカンス気分を味わったのである。
  • 2007/08/18
    坂道が多いから街を散策することが困難である。その上、息子は年寄りには危ないとなかなか街を歩かせてくれない。それでもマーケットを訪ねた。
    僕はこれまでフィリッピンでも韓国でも中国でもモロッコでもパリでも・・・・・日本でも下町や古い街を歩くのが好きだ。その土地の歴史や風俗がもっともよくわかる。それなのになかなか歩かせてくれない。
    確かに,ある程度は危険なのだろう。観光客風に、カメラを下げてふらふらしていては襲うのに格好の相手なのだろう。
  • 2007/08/17
    首都、アンタナナリブのことを土地の人々はタナと呼ぶ。12の丘で出来ていて夫々に砦があって中心の丘に女王が君臨したのだと言う。この街はマダガスカルの一番高い中心に位置していて,そのまた険峻な複数の要塞で構成された街である。
  • 2007/08/16
    そもそも、息子がマダガスカルに住むことになった切っ掛けを作ったのがアレキシスさんだった。かれは東京農業大学へのマダガスカルからの最初の国費留学生として日本に来て、知り合ったのだが、それが縁で彼はこうして遠くはなれたマダガスカルに夢を持つようになったのである。
  • 2007/08/15
    車で移動中に沢山の集落を見た。道路に家が引っ付いている村の形ではなく、空地に家々が適当に配置されている、典型的な集落である。一軒一軒がお互いに気遣いしながら適当な間合いをとって集合している。

    自分でつくっているらしいこの家の構造は細い丸太を組み合わせている。端部が二股に分かれたそのポイントを上手に使ってはりを乗っけたりしている。時間がある時につくるので建設中の家がいっぱいある。
  • 2007/08/14
    アフリカの東側に寄り添った大きな島。人口は1700万人程度だが国土は日本の1.6倍という。こんなところに僕の息子が住んでいる。
    遠くてなかなか行けないのだがやっと家族で訪ねることが出来た。

    僕にとっては二度目なのだが、さすがに遠い。バンコクで乗り換えてマダガスカル航空でアンタナナリブに入る。
    息子夫妻の迎えを受けて、少しの休息後にすぐ西海岸のムルンダバにプロペラ機で飛ぶ。
  • 2007/07/04
    宇宙のどこかに生命のある星はないか、と真剣に探している人たちがいる。この無限に広がった宇宙だから生命の星はまさか地球だけではあるまい、というのである。それでも、まだ誰もそんな星を発見していない。どうして地球だけに生命があるのか?
  • 2007/06/25
    「ものづくり」とはそれを<欲して>、その姿を<描いて>、いろいろ工夫して<つくる>ことなのだが、今のデザイナーはそのなかの<描くこと>だけをやっている。
    マーケットが欲するからその通りにつくることがいいことだと思い込み、それが本当にいいものかを考えることをしないで<描いて>いる。「危ないぞ~、マーケットなんてどこにあるんだ?ちゃんと考えないと本当に使う人ではない誰かの欲求を満たしているだけかも知れない」と思うべきである。
  • 2007/05/30
    今では「ものづくり」と言えばメーカーのことなのだが、それ以前に「ものつくりの専門家」とは職人のことだった。ものをつくるとは素材を加工することだから職人は素材といつも会話して素材の心を知っていた。加工しているうちに素材への愛情や素材との一体感が育っていくのだろう。
    素材とは身の回りの自然の一部のことで、素材と語り合うとは自然と語リ合うことを意味している。人間も自然の一部だから職人さんは「自然と自分との一体感を感じながら素材と会話している人」だと言うことになる。
  • 2007/05/27
    40年前の僕のオフィスのロゴマークは石岡さんだったのだが今は株式会社のKのロゴマークとして再生している。そうなったのは松永真さんのせいである。真さんは僕のオフィスのステーショナリーの作り替えをお願いした時にロゴマークも変えてしまったのである。グラフィックデザイナーが異なるデザイナーのつくったロゴマークを使うのに抵抗があったのであろう。
  • 2007/05/25
    株式会社Kという名称には深い訳がある。もちろんKUROKAWAのKなのだが単にそこから来たのではない。普通は会社名が先に決まってロゴマークは後でつくるのだがここではその経緯が逆になっている。
    ロゴマークが先にあり、そこからこの会社名が生まれた。
  • 2007/05/21
    デザイナーが自分の構想をそのまま実現できるということは実に嬉しいことである。日頃は紙の上に構想するのだが,密度の高い構想でも理解者がいないと実現しない。
    当然のことだけれど商品化しようという決断をしてくれた企業だってその企業の力の範囲でマーケットを考え、販売先を考え、投資額を考えながら製品化の計画を立てる。当然、リスクは大きいし、僕がどんなに自信があっても相手企業次第で実現はしない。
  • 2007/05/18
    OEMとは<original equipment manufacturing>の略称であり、「相手先ブランドで販売される製品の受注生産」のことを言う。これは今ではメーカーの多くがこういう立場で仕事をしている。
    「物をつくる企業」は、市場がなにを求めているかを予測し、それを製造して小売店に販売するのだが、この製造という中心的な作業に意識も資金も集中して、川上である「予測・企画」と川下である「広報・販売」がどうしても疎かになる。
  • 2007/05/16
    シンプルに自分のイニシアルをそのままにした株式会社Kを設立した。これはいわば自分の仕事の総括だと思っている。
    デザインは物をつくるためにする行為なのだが,それがなかなか実現しない。デザイナーは物というメディアで語る語り部であったり小説家であったり哲学者なのだが,スケッチや図面やモデルだけで終わってしまっては表現できないのと同じである。
    普通、デザイナーは企業から依頼されてデザインするからいろいろ変更されてしまうことはあってもとにかく実現する。違うんだよな…とか思ったとしても、とにかく歌手なら歌が歌えたことになる。
  • 2007/05/14
    オフィスを開いて40年になる。その間、一貫して10人以上のスケールにしないと決意していた。バブル期の仕事がいっぱいの時もそれを死守して来た。ある先輩は、「君、それは寂しいことになるよ」といっていたけど、確かに寂しい思いはいっぱいだった。どうしても仕事の仲間は入ったり出たり。まるで大学のような感じだった。大組織だとどんどん人は組織の中での立場が上がって、課長から部長、そして、社長や会長になるまで、ずっと定年までやっていける。ところが、10人ということはいつまでたっても部下ができない。意欲のある人はどんどん出て行くことになる。また別れだな、と飛び立つ若者を祝福しながら、寂しさを噛み締める。
  • 2007/04/15
    少しずつ死のことが見えて来た。死ぬとはどういうことかが分かって来た気がする。
    宇宙と自然とを同じことのように感じていたのだけれど、どうもそうではないらしい。自然とは生命体の生息する世界。宇宙とは原子の世界なのである。そして、死ぬとは自然から宇宙に還ることのようなのだ。
  • 2007/03/06
    友人から返信があった。以下、本人の許可を得て掲載します。

    -------------------------------------------------------
    まあ、勝手に決めつけないで。
    年よりだけが特権的に死を語れるわけでも、死と向かい合って
    いるわけでもない。

    ブログ読みました。
    「今日は死ぬのにもってこいの日」あれは私が黒川さんに紹介した本だね。ずいぶん前のことになるけれど。
  • 2007/02/24
    「今日は死ぬのにもってこいの日だ」というのがある。
    尊厳をもって自分の死をおおらかな自然観から捉えるネイティブ・アメリカンのセリフである(ナンシー・ウッド著/出版・めるくまーる)。
    宗教が説く死生観ではなく自然の1部として生きる人間のセリフである。
  • 2007/02/18
    一人一人がそれぞれの喜びや悲しみを感じながら生きている。恥ずかしかったこと、不愉快だったこと、思わず微笑んでしまったこと、思い出しても辛いこと、ふと感じる不安や寂しさ、嫉妬、侮蔑、自己嫌悪、でも頑張るぞ~と自分に言い聞かせる瞬間、そしてまた落ち込んでしまう瞬間・・・そんないろいろな想いの中に一人一人の人は生きている。人生は簡単ではない。毎日、毎日それなりに苦労してそれなりに楽しく生きている。
  • 2007/02/10
    大連の友人が突然この世から旅立った。
    東京にいる僕には始めからその友人の存在が、毎日会う訳ではないから現実感がなく、その死がそれ故に現実に思えない。
    まだ出会って1年にもならないのだがメールのやり取りで気持ちだけは心の、結構深いところに侵入し合っていて、その死がとても辛いのだけれどその死からまだ12日しか経過していないこともあって未だに実感が湧いてこない。ただただ喪失感だけが残されていてその感覚が1日に何回となく蘇ってくる。
    その友人の存在が始めからはかない夢のようだったから、そのまま本当の夢になってしまったと言うのが当たっている。
  • 2007/01/01
    何も変わるわけではないのだが新しい年は気持ちがいい。誕生日にしても正月にしても,だらだらと動いていく月日に区切りを付けて、正月だ、誕生日だと再出発の日を決めるだけで命が蘇る。さあ、今日の始まりだ!と毎朝思うだけで再出発できる。
    時というのは空間と同じように連続的なのだが、人がそれにかかわると途端に違う様相を持ち始める。今と言う一瞬はそれが刻々と移動してとどまらないのだが常に<これまでの過去>と<これからの未来>を今の後ろと前に持っている。
    問題はその<これまでの過去>と<これからの未来>の間にものすごい断絶があることである。
  • 2006/12/10
    最近、写真を真剣にやってみようと思っているのだが、できた写真を見ていると僕の写真は物をとっていない.必ず空間をとろうとしている。空間は物と物の間に出来る「間」だから空間をとることで物も撮っているのだと言えないことはないのだが、僕の写真には物の霊魂までは写っていない。
  • 2006/11/23
    デザインとはどの範囲を言うのか、どうも僕の中では二つの範囲があるようである。普通は「ものというかたちで様々な欲求の力を収斂させる」ことがデザインなのだが,もう一つ大切なデザインの範囲はその「ものが成立する条件をもつくりあげること」である。
  • 2006/11/22
    何のために生きているのだろう、と考えることがある。これまで色々な仕事をして来たが、建築から始まって工業化建築の開発から、建材の開発、そして、プロダクトデザインに夢中になって、そしてインターネットに、今では自分のデザインしたものを販売することまでやっている。そして、その全部がデザインだと思ってもいる。
  • 2006/11/05
    愛とは不可解でちょっぴりスキャンダラスで、そうは簡単に口にできないセリフである。僕はこの愛と言うセリフで2度ほど人の心との断絶を経験している。
    シンポジュームでいろいろ議論をした後で『結局,建築もデザインも愛の問題だ』といったところ相手は息をのんで、その後、あいつと議論するのはごめんだ、と付き合ってくれない。も一つは早稲田大学で学生に対してこの同じセリフを言ったらしい、らしいと言うのはちゃんとその瞬間を覚えていないからなのだが、最近その学生がプロの建築家になって出版した著書に『黒川と言う先生が・・・』と前述のセリフを書いているのを発見したのである。
  • 2006/11/03
    逸話4/<九龍公平杯>の伝説
    明の時代のことです。政府は景徳鎮に皇帝のための専門工房として<御窯工房>を開設しました。
    その噂を聞いて多くの陶磁器の職人たちが景徳鎮に集まってきました。そこで働きたくても簡単な事ではないのですから選ばれた技師たちは全部優れた技術を持っている技師たちばかりでした。
    景徳鎮の県長は皇帝の関心を買おうと<御窯工房>の技師たちに半年以内に<九龍杯>という陶器を作らせるという厳しい命令を出しました。よくできれば賞金を与えるけれど、できなければ厳重に処罰をするというのです。県長は自ら現場にいて監督までしたのです。
  • 2006/11/02
    逸話3/陶磁器の仙人
    民国年間に景徳鎮に曾生という人がいました。彼はとても有名な陶磁器職人でした。ただの土が彼の手にかかるとまるで本物のようになるのでした。彼が仙女と花を彫刻すると仙女どころかその周囲に沢山の華麗な花がまるで本物のように香りまで漂って咲き乱れるのでした。こんな優れた腕を持つ職人は生活には余裕があるのだろうと思われるでしょうが、彼はまったくその逆でした。彼の作品は宝物のように高値に売れたのですが、資本家と官僚たちがいろいろな名目で税金を徴収し、ほんの僅かしか残りませんでした。その上、彼は自分より貧しい人たちを援助していつも貧乏でお腹を減らしていました。
  • 2006/11/01
    景徳鎮は1000年の歴史を持っている。中でも明の時代は多くの傑作が生まれ、世界に輸出された輝かしい時代であった。当時は官窯と呼ばれる皇帝のための陶磁器を生産する窯があり、そこでは数十、数百の器を焼いてその中から優れた器だけを選びだし皇帝に納めていたと言われている。そのために今でも当時廃棄された器が固まりとなってでてくるという。
    そんな景徳鎮には当然、多くの逸話が伝承されている。その多くは皇帝のためにどれほど苦労して美しい器を生み出して来たか、その職人たちの悲しい物語である。
    そのいくつかを紹介しよう。(採集・翻訳/劉海清、日本語監修/黒川雅之)
  • 2006/10/27
    コンピュータのデスクトップの片隅にこの原稿を見つけた。一寸季節外れだが掲載する。
    今年の秋はまだ曖昧に始まって本格的な秋晴れを見せてはくれてはない。ほんの一日深い秋の空だと思ってもすぐ曇りになり雨になる。
    日本はなんて多様な気候を見せてくれる国なのかと思う、そしてそのことが日本人の多様な美意識を育てたのだなとふっとこの秋らしくない秋にも感謝したくなる。
    秋らしくない秋に秋を感じ、雨の降る日にもその美しさを愛で、風の強い日にはその風が好きだったと少年の頃を思い出してそれを楽しむ。夏は暑くなくっちゃな、とあきらめではなく本当にそれを楽しむ。
  • 2006/10/26
    景徳鎮で皿をつくろうと思い立った。訪ねて景徳鎮の国営企業と作業に入った。その街のイメージを探す、多くの人々に会う、景徳鎮陶磁器大学を訪ね、教授と会い、そして、歴史を調べる。

    小学生の時代に知ったあの中国の景徳鎮の知識とも、二十数年前に訪ねた煙突のいっぱいあった景徳鎮とも今は恐ろしく異なっている。1000年の歴史はどこへ行ったのかと思うほどに簡単には見つからない。深く知るに従って景徳鎮の神髄のようなものが少しずつ見えてくる。
  • 2006/10/15
    椀と碗。椀は漆器などの木製の場合、碗は磁器や陶器の場合に用いるそうである。同じ発音でも漢字は正直にその素材や感触まで伝えている。英語だと単に「ボール」だから深い身体感覚での意味までは伝えてくれない。
  • 2006/10/09
    器(うつわ)って何だろうといろいろ考えている。その思いと想いをいろいろな形で書き記していくことにする。

    もう二年ぐらい昔からになるのだが、朝食をパンからご飯に切り替えて日本式の朝食を始めた。理由は健康なのだが和食はオイルを使わないし、用いる素材が多様でいかにも健康にいい。
    始めは何でもない茶碗を使っていたのだが、そういえばすばらしい漆器の碗を頂いたのだったとしまい込んでいた二つの漆器の椀を持ち出して使いだした。
    一つはご飯にもう一つはみそ汁に。その二つともそれぞれ優れた作家か職人の作品だから食べていて気分がいい。手触りも口障りもよくて急にご飯もみそ汁も美味しくなった。
  • 2006/10/05
    書道家の柿沼康二さんをテレビでインタビューしていた。名筆をそのまま書き写すことを臨書というそうである。彼は毎日必ずこの臨書をするという。臨書をして創作をする。この関係が僕には呼吸に見えてきた。
    優れたピアニストの演奏を聴きそれを真似てみるのも一種の臨書だろう。
    学ぶことと創作することの関係は呼吸なのだと思う。学ぶことを、息を吐くことだとすると、創作することは息を吸うことである。吸うだけでは窒息する、吐くからこそ吸うことが出来る。
  • 2006/10/04
    美容院にいくと先ず、頭を洗ってくれる。その度に思うのだが折角気持ちよく洗うに任せているのに洗いながら常に声をかけてくる。「首の様子は大丈夫ですか?」、「お湯の温度はいかがですか?」、「洗い残しはありませんか?」、「濯ぎ残しはありませんか?」と少しも休まる間がない。その度に苦虫をかみ殺して「うん」とだけいっている。
    洗ってくれている若い男性はきっと見習いで、いろいろな気遣いをすることがサービスだと思っているのだろう。お客様の快適を求めて一生懸命に不具合はないか気を掛けてくれているのだろう。でも果たしてこれがサービスだろうか?
  • 2006/10/01
    何でもない漁師町をすぎて町並みを少し入ると突然雑木や竹林の木立が迫って一車線の山道になる、このほんの少しの、まるで儀式であるかのような導入部を抜けると空き地に二三台の車が止まっている。

    年老いた柴犬かその雑種かと思われる犬と二人の子供がいる。一人の子供が楓の木の4メートルはあろうかという高さの小枝に身体をかけて揺らせている。もう一人の女の子は何かお気に入りのものを手にもっている。